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海印寺石門関 | 邱良功墓園 | 瓊林蔡氏祖廟 | 瓊林一門三節坊 | 古龍頭振威第
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| 古龍頭水尾塔 | 蔡攀龍墓 | 水頭黄氏酉堂別業
| 虛江嘯臥石碑群
| 文台寶塔 | 漢影雲根の石碑 |
海印寺石門関
【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 その他
【 位 置 】 太武山頂峰梅園の後方
【創建年代】 宋度宗咸淳年間(1265-1274)
海印寺はもともと太武巌寺といい、太武山の上にあります。
太武山は福建同安の鴻漸山と同じ山脈に属し、島の東部にあります。山全体が石で構成されていて、武士のかぶる兜に似ていることで太武と名づけられたのですが、海に浮かぶ石山で印章に似ているため「海印」とも呼ばれるようになり、遠くから眺めると、その隆起した山の峰が人が仰向けに横たわっているように見えるので「仙人仰臥の地」とも言われています。
太武山の海印寺は、宋度宗咸淳年間(1265-1274)に建立されたと伝えられており、元来通遠仙翁を祭っていたところですが、今は観音菩薩を主体に、十八羅漢をも合祀しています。
「海印寺石門関」は寺の左側にあり、アーチ型の門の上方に、「海山第一」と書した四文字の額が掲げられていますが、書した人の名はなく、左下方に、「永暦辛丑十五年秋題」とあるのみです。
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邱良功墓園
【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 陵墓
【 位 置 】 金湖鎮小径村湖字第49560地号
【創建年代】 清嘉慶二十四年(1819年)
邱良功は金門後浦の人で、勇猛果敢の軍人でした。外委、把総、千総、守備、遊撃、参将、副将、総兵と勤め上げ、浙江提督までなった人です。
嘉慶十四年八月、邱良功は漁山外洋で、海賊蔡牽を包囲討伐していましたが、日暮れ時になっても決着がつかず、敵が夜の闇にまぎれて逃げてしまうのを恐れた邱良功は、自分の船を敵の大船にくっつけて戦い、手傷を負っても退去せずに戦い続けたので、敵は遂に弾丸尽きてやむなく船を打ち砕き船とともに海に沈むことを余儀なくしました。
この戦いで、一代の大盗賊蔡牽は滅び、邱良功は三等男爵に叙せられました。
嘉慶二十二年、邱良功は皇帝謁見に赴きましたが、道中で逝去し、建威将軍の謚を授けられました。
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瓊林蔡氏祖廟
【 級 別 】 第二級
【 類 別 】 祖廟
【 範 囲 】 以下の如し
古 跡 名 称 位 置 創 建 年 代
新倉上房十一世宗祠 瓊林 13 号 清道光20年起工翌年竣工
新倉下房六世十世宗祠 瓊林 91 号 明末清初(明嘉靖―清康煕年間)
蔡氏家廟 瓊林155 号 清乾隆35年(1770年再建)
大厝房十世宗祠 瓊林156 号 清康煕年間
坑墘六世宗祠 瓊林 1 号 明末清初(明嘉靖―清康煕年間)
前庭房六世宗祠 瓊林 36 号 清乾隆35年の数年後
藩伯宗祠 瓊林112 号 清乾隆年間
怡穀堂 瓊林 76 号 明神宗万暦20―25年間
風獅爺(1) 村北東端 不詳
風獅爺(2) 村南西端 不詳
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瓊林村は金門島中央部の北端に位置し、村の南には海抜四十四メートルの
亭仔山、南西には海抜八十二メートルの双乳山、北東と南西には元来それぞれに小さい渓流が流れていたのですが、蘭湖水庫(ダム)や瓊林水庫の建設で、干上がってしまいました。
瓊林は昔、地勢が平坦で、樹木が多かったことから、「平林」と呼ばれていたのですが、明の万暦年間、当地出身の蔡獻臣という人が朝廷で任官し、時の皇帝に本拠地を問われ、平林と答えたら、平林は俗っぽく、「瓊林」の雅やかさに劣ると言われたので、瓊林と改めたのです。皇帝から賜わった地名なので、「恩賜里名瓊林」とも言われています。
「瓊林蔡」は比較的早い時期に形成された村で、蔡氏家系図の記載によると、瓊林蔡氏の始祖十七郎公は、南宋初期に平林の陳家に婿入りしたのですが、その後子孫が増えて大家族になりました。その一方で陳家はその後、陽翟に移ったということです。
「瓊林蔡」は文教を重視したため、科挙時代に、科挙に合格して任官された人は殊のほか多く、明、清二朝を通じて、総数進士六人、挙人七人、貢生十五人、国子監生二十七人、生員八十人、武将六人もおり、文風の盛んな地であることがうかがえます。
瓊林は山海の利に富み、昔から人口が多く、単一の姓の血縁によってつながる宗族の形成した集落で、今も尚、数多くの南福建様式の古い建物や「七座八祠」得宗祠、廟が残されており、伝統的祭祀活動も伝承されております。それゆえ、瓊林はかなり十全な文化有機系統で、金門島の生命力溢れる伝統的集落です。
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瓊林一門三節坊
【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 牌坊
【 位 置 】 金湖鎮瓊林村外
【創建年代】 清道光十一年(1831年)
「瓊林一門三節坊」は、清道光年間瓊林新倉上二房二十二世蔡仲環の妻陳氏とその次男蔡尚聞の妻陳氏、三男蔡尚神の妻黄氏の三人の嫁姑を表彰の対象にしたもので、金門現存の三つの清朝牌坊の表彰対象の中でもっとも凄絶な一生を送った三人といえます。
蔡仲環の妻陳氏は、斗門陳海の娘で、二十九才の若さで夫に死なれましたが、幼い二人の息子芳桂、尚聞と夫の死後に生まれた尚神を立派に育て上げました。その次男蔡尚聞は、斗門陳文心の娘を妻に迎えましたが、陳氏二十一才の時に死去、三男蔡尚神は、汶水の黄志伝の娘を娶りましたが、これも黄氏二十九才の時に死亡、一門三人の寡婦は夫亡き後をまもってよく励み、勤労、倹約を家訓に、貞節をつらぬき、遂に八十数人にまで増えた子孫の大家族の中で、晩年を安らかに過ごすことができるようになりました。道光十一年、三人は朝廷によって表彰され、牌坊が建てられました。
古龍頭振威第
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【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 邸宅
【 位 置 】 金寧郷古寧村北山二十一号
【創建年代】 清乾隆五十四年―乾隆五十九年(1789―1794年)
嘉慶二十一年(1816年)、広東水師提督に任じられた李光顕は、金門
古龍頭の人で、字は隆武、号を鑑亭といい、清乾隆二十二年(1757年)
九月二十五日出生、嘉慶二十四年(1819年)八月二十七日歿、享年六十三才でした。
言い伝えられるところによると、李光顕は若年のころから腕力が強く、体つきも威風堂々としていて、金門遊撃署の兵士とよく取っ組み合いをしていましたが、負けたことがなかったということでした。乾隆四十二年(1777年)、李光顕二十一才、軍の人や兄などに勧められて軍隊に加入、実直で温厚な人柄と勇敢に全力を尽くして戦った功績が評価されて、地位は最下位の金門鎮標右営外委から一品武将広東水師提督まで上りつめたのです。李光顕六十才、嘉慶二十一年のことでした。
ちなみに、李光顕が転戦した地は金門、澎湖、福建、浙江、広東などの南東沿海地方をカバーし、四十数年の軍旅生涯の中で、参加した戦役は数え切れないほどありましたが、比較的重要な戦績は、台湾林爽文の乱の平定に参加したことと、名将李長庚、邱良功などに従って海賊蔡牽とその一味を討伐して、南東沿海に平和をもたらしたとで、両広総督阮員曾はその功績をたたえて、「海邦著績」と題字した額を贈って表彰しました。
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古龍頭水尾塔
【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 その他
【 位 置 】 金寧郷古寧国民小学校の南側
【 創建年代 】 乾隆三十二年(1767年)
古龍頭水尾塔は、古龍頭水辺の湿った低い窪地にあり、李氏家系図の記載では、二百三十年ほど前に作られたとあります。
古龍頭は血縁集落といえ、住民は李姓の人が多く、明成祖永楽元年(1403年)、李氏の祖先(李永祥)が初めてこの地に定住して、子孫を増やし、大家族を形成していったのです。
古龍頭は水辺に近く、魚塩の利に富み、山林は水が豊富で、土地も耕作に適していましたが、清の乾隆年間、古寧頭の長老が、明の時代を通じて、金門島では科挙に受かって任官した人がかなりいたのにもかかわらず、古寧頭村からは一人として赫赫たる名声を有する人がでなかったのは、古寧湾の潮の満ち干の差が大き過ぎて村の発展を妨げているためとして、今の北山「下店」外にこの石塔を築き、これによって、水を集めて財を成すと同時に、水路からの厄をはらい、村民の無事息災、発展を図らんとしたのです。こうして見ると、この塔は、地理占いの信仰による塔といえます。
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蔡攀龍墓
【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 陵墓
【 位 置 】 金湖鎮太武山武陽道側
【創建年代】 清嘉慶四年(1799年)
蔡攀龍は瓊林の人で、瓊林上坑墘房の二十世子孫です。体格が立派で、威風堂々としていて、声は割れ鐘のように大きく、若年の頃は家が貧しかったので、魚をとって食いつないでおりましたが、軍に入ってからは、強いということで、賊兵を震え上がらせ、「蔡虎」と呼ばれるようになりました。また、兵を率いて東征した折りは、大小八十三回の戦いをしましたが、すべての戦いで勝利を収めましたので、「福将」とも呼ばれています。
清乾隆五十一年(1786年)、蔡攀龍は台湾林爽文の乱平定に参加し、トップ二十名の功臣に列せられて、画像は紫光閣に掲げられるという栄誉を授けられました。
そして、乾隆五十三年正月には、福建陸路提督に任じられましたが、皇帝の近侍が蔡攀龍の能力や清廉潔白さを問われた時、「凡庸」の二字で形容したため、間もなく、江南狼山鎮総兵に降格させられました。嘉慶三年七月、その任期中に逝去しました。
水頭黄氏酉堂別業
【 級 別 】 第二級
【 類 別 】 邸宅
【 位 置 】 金城鎮金水村前水頭五十五号
【創建年代】 清乾隆三十一年(1766年)
水頭村の住民は黄姓の人が多数を占めています。泉州開元寺建設資金を拠出した黄守恭紫雲衍派に属し、金水黄氏の開祖黄輔は、字を仲卿といい、元朝廷佑二年の乙卯科進士でした。
水頭「酉堂」は、自称十八本マストの帆掛け船を有する船王の黄俊(清康熙四十一年出生、乾隆四十八年歿)によって建てられました。
虛江嘯臥石碑群
【 級 別 】 第二級
【 類 別 】 石碑
【 位 置 】 金城鎮古城村金門城南磐山南端
【創建年代】 明嘉靖十四年―十五年間(1535―1536年)
明嘉靖十四年(1535年)武進士で金門千戸所正千戸に任じられた俞大
猶は、字を志輔、号を「虛江」といい、赴任後は海の防衛を厳重にして訓練を強化し、盗賊を退けて守りを強固にしました。そして、そのかたわらで、礼楽で以って軍民を導き、士大夫と学問を談じたり、詩を吟じたりして、文化を高め、軍民間の争いを調停したので、民風は敦厚善良になっていきました。
俞大猶はまた、暇の折りにはよく当地の紳士黄偉、許福、顔揚や、部下と城南の「南磐山」に登ったりしました。「虛江嘯臥」の石碑は、その石崖の上で休憩し、海の景色を観覧した折、記念として題字したのを彫ったものです
文台寶塔
【 級 別 】 第二級
【 類 別 】 その他
【 位 置 】 金城鎮古城村金門城南磐山南端
【創建年代】 明洪武二十年(1387年)
金門には、三大古塔があります。その一は、太武山の倒影塔で、その二は、水頭村の矛山塔、その三は旧金城の文台寶塔ですが、それらは、すべて明洪武二十年(1387年)、江夏侯周徳興が金門城を建てた時に、水陸の形勢を勘案して、作ったと伝えられています。
しかしながら、太武山の倒影塔は、1918年の大地震で壊れ、水頭村の矛山塔は、軍事的な理由から、1961年に壊され、今では残るところ旧金城の文台宝塔のみとなりました。
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漢影雲根の石碑
【 級 別 】 第三級
【 類 別 】 石碑
【 位 置 】 金城鎮古城村献台山上
【創建年代】 明永暦五年―明永暦八年(1651年―1654年)
「漢影雲根」は、明末の魯王朱以海本人の題字です。
魯王朱以海は、字を巨川、号を恒山、または、常山子といい、明太祖朱元璋の第九子朱檀の第十世子孫で、明万暦四十六年(1618年)五月十五日出生、永暦十六年十一月十三日歿、享年四十五才でした。
朱以海は、崇禎十七年に明室によって魯王に封じられましたが、後に戦乱で浙江に逃げ、そこで、当地の義士に擁されて即位し、福州で即位した唐王とともに、皇帝を名乗りました。
隆武二年(1646年)、清兵はついに、浙江に攻め入りましたので、魯王は舟山に逃れましたが、後に鄭芝龍一族の鄭彩、鄭聯によってアモイに迎えられました。その兵力で、一時は二十七州県を落としましたが、力及ばずまた舟山に戻りました。
永暦五年(1651年)清兵が舟山に攻め入りましたので、魯王はアモイに逃れ、時既に金門アモイを占拠していた鄭成功に迎えられて、金門に入りました。
永暦十年から十二年にかけて、魯王は広東南澳に行ってましたが、永暦十三年再び金門に戻り、永暦十六年にこの世を去りました。
魯王は一生を通じて、あちこち流浪を余儀なくし、海の上で十八年、金門
に前後合わせて十年以上もいました。その間、献台山の巨岩に「漢影雲根」の四文字を彫り込み、外敵に抵抗して、雲の如く各地を流れ歩き続け、最後にこの地に落ち着いた我が身をかえりみて感慨も一入だったのです。
魯王の死後、遺体はこの石刻の近くの青山に葬られました。
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