饒富地方ならではの魔除け
金門の地理環境は貧しく、加えて明朝時代から多くの戦乱を経てきたため、島の住民は邪気を払い、福を呼び込むために、普遍的に魔除けを設置しています。集落の中の魔除けは、村の外周に風獅爺を設置、或いは河口に水尾塔などを設置するのが一般的であり、いずれも村を守り、無事を祈るものです。住宅の魔除けの多くは、邪気を解消する考えのものが多く、例えば庇に照壁、屋根に瓦将軍、オーブン、風見鶏を設置します。壁面には石敢当を設置するなど、厳密な心理的防御を作り上げています。
風獅爺の由来
金門諸島は福建東南の外海の近くに位置し、周りに高い山がなく、中央に丘の起伏があり、雨量は均等に降らず、冬の北東モンスーンが強く、昔のことわざでも「金門は十三省風の風を食う」と言われているほどです。更に歴代戦乱に遭い、森などは激しく破壊され、風砂に悩まされていました。歴史文献の記載によりますと、金門の后壟、内洋などの村では、風砂で埋まったために、村ごと移転したとあります。
早期金門の民間で一般的に風獅爺を設置する目的は、砂や風災から免れることを祈るものだったが、正確な年代の記載がないため、始まった時期が定かではありません。宋代は海外貿易の発展を促進するために、泉州にて市舶司を立て、海外の交通事務を担い、風を祈り、海を祭るセレモニーを行い、船舶の航海安全を祈っていました。泉州湾河口の金門島は当時海上のナビゲーションの一つでした。咸淳年(西暦1266年~1274年)島に太武岩寺を建て、通遠仙翁を奉り、雨風の祈祷は必ず叶うと言い伝えられており、これが金門に関する風を祈祷する風習の始まりでした。その後は閩南道教と融合し、風獅が風を収めるとの儀式により(風を司る神の“司”は、風獅の“獅”と同音)、民間信仰が風を鎮圧、風災を防御する守り神となり、同時に蟻による被害の防除、道路や渓流から邪気を無くし、家内安全など多くのご利益のある神さまになりました。
金門風獅爺の落ち着き場所を探す
金門では風獅爺の別名は石獅爺、石彫刻と粘土彫刻の二種類があります。前者は精巧で素朴な感じ、閩南石彫刻のスタイルを踏襲しています。後者は生き生きとし、獅子か犬かと想像させられ、その多くは現地の職人の作品である。サイズが最も大きい粘土彫刻は安岐の風獅爺であり、その高さは385センチ、最も小さい石彫刻の風獅爺は30センチ弱です。
風獅爺は通常村の外周辺、東北或いは北に向けて置かれます。下墅の聖帝廟、東洲の孚佑廟、瓊林の保護廟、後水頭の汶源宮、汶徳宮、陽翟の会山寺、山后の感応廟、西園の楼山寺など、地方の廟の近くにも風獅爺が置かれます。人々は廟の祭りに参加する際に、麺類などを風獅爺にお供えします。
じっくり金門文化を探究する旅を計画しているのであれば、風獅爺を探すのは最も知性的なスケジュールの一つです。しかし、如何にして図籍で彼らを見つけることができるのでしょうか?余りにも多くの知性と感性の趣が含まれています。彼らの多くは集落の村の入口、伝統建築の屋根、或いは祖廟の壁に嵌めこまれ、はたまたは廟のどこかの隅っこに隠されたり、人々に忘れられた住宅建材の山の中にあったりします。
異なる年代により造形、材質、工芸テクニックなども民間の様々な風習伝説により、幾らか神秘的な人文的な色彩が加わります。金門の風獅爺を探すと共に、金門の豊富な人文風貌をも探索することになります。
古寧頭北山風獅の伝説
昔、双鯉湖そばにある古寧頭村には、頻繁に海水が流れ込み、人々を悩ましていたが、北山に風獅爺を奉った後、災害が止まり、海水は風獅爺の所までしか流れ込まなくなりました。しかし、奉った行為により、西浦頭当日は黒雲が太陽を覆い、鶏と犬が鳴かなくなりました。乩童が占ったところ、古寧頭に風獅爺を奉ったためであり、撤去を申し出ました。そのことを設置した人々が耳にすると、排林厝、南山、北山の三箇所の住民たちが日夜見張ることにしました。ある日、林家の人が見張る番になった時、海水が流れ込むのは南山、北山だけで、林家の敷地とは無関係と思い、持ち場を離れて賭け事を楽しんでいた時、西浦頭の住民が河から岸に上がり、風獅爺の左耳を破壊しました。それからと言うもの、雲が晴れ、西浦頭の鶏と犬も普通通りに戻りましたと。
住宅の壁に潜む風獅爺
官澳路のそばにある家屋の壁に石獅が嵌め込まれています。花崗岩の材質は建材にも使われる石です。家主が風水師に占ってもらい、石獅を家の守り神とすることに決めました。礎石に似たもので、家屋を建設する前に先に設置するものです。近所の住宅でも石獅と石敢當を門の壁に立てているのが見られます。
金門の強風を表すことわざについて:
(一)風に吹かれて南太武まで:南太武山は漳州龍海市港尾鎮に位置し、九龍江の河口の近くにあり、遠くに金門島の北太武山と向かい合い、昔航海する際に目印の山の一つでした。島の幾つかの場所でこの二つの高い山を眺めることができます。
(二)八月十五、ドアを閉めてかんぬきを掛ける:金門地域は中秋節の後、東北の強風が止まぬ。住民の多くは布で頭を包み、朝晩はドアをしっかりと閉めます。
(三)芋を食べて、ドアを閉めてかんぬきをかける:さつま芋とトロイモは秋に収穫される農産品です。この時から北風が強くなり、天気も次第に寒くなります。
(四)九降風:金門の秋から風が吹くと砂が舞い上がる。その風は九降風と呼ばれています。
屋頂にいる風獅爺
金門の俗称は厝頂蓋の屋頂と呼ばれ、棟に設置される風獅爺(別名瓦獅と瓦將軍)が目を引きます。それらは同じくレンガ瓦の産地から運ばれて来たものであり、各家庭に必ず一つ、という訳ではないが、家を建てた場所で度々災害に見舞われたり、住民の体に悪い影響が現れたりする際にお払いをしてくれると信じられています。一番古い文献で宋朝陳直の《韋居聴輿》に記載されているのは:「福州旧有籤曰く:『獅子が去ると犬が鳴き、壮元が玄関に』。周知のように、黄朴賜第の年の元日、屋根にある瓦獅が落下し、犬たちが鳴き、黄魁の天下に。」閩南臨海では風が強く、家屋が破壊されやすいため、瓦獅を立てると、風をしずめ、邪気を避けると信じられています。
屋頂にいる瓦将軍は鎧を身に着け、体を横に向けて弓に矢をつがえ、獣に跨る姿は頭が大きく、体が小さく、まるで獅子のように凛々しい顔つきで、今にも戦いに駆け出そうとしている様子で、近寄りがたい武士の格好をしています。《金門県志》の書物では:「鎮煞:民家の屋根にある陶質の瓦獣は、獅子のように口を開け、または将軍のような威厳を持つ。その名は蚩尤、或いは紅泥小爐の色絵で獣の頭を描くのも祟りを鎮めることができる。」と書かれています。《史記》に記載するのは:「蚩尤が乱を起こし、黄帝の命令に背くため、黄帝が軍師と諸侯を集め、蚩尤と逐鹿の野原で戦い、遂に蚩尤を捉えて殺めた。」とされています。《宋史•礼志》に記載する内容では、古代軍隊が出征する前に、必ず蚩尤及び軍隊の前に置かれる大きな旗を祭る「祭蚩尤禡牙」のセレモニーを行う。しかし民間の信仰では、崇めるのは蚩尤の風を呼び雨を召喚する能力であると。《山海経》で分かるように:「黄帝は応龍に命じて蚩尤を攻める。蚩尤は風伯、雨師を呼び雨風を起こしたが、黄帝は天女『魅』呼び雨を止ませて蚩尤を殺めた」。それ以降は彼を使って雨風が家屋に与えるダメージを抑えてもらっています。《太白陰経》では、彼は革を切って鎧とすることができると書かれています。棟で弓に矢をつがえる瓦将軍は、災害防ぎ、家内安全を祈る象徴になりました。