設立の沿革
1980年代より、台湾は懇丁などの九つの国家公園を相次いで建設し、土地に対する倫理意識の向上を象徴すると共に、台湾の自然と文化の最も素晴らしい場所を多く残しました。続いて建設した金門国家公園は人文資産を重視し、指標性の場所であり、台湾における国家公園としての構えと領域を更なる完璧なものにしました。
金門は民国81(1992)年11月7日に戦地政務を終止し、民国82(1993)年2月7日より観光業を開始しました。現地の人文史跡と自然の景色の適切に保存し、メンテナンスできるよう地方政府及び立法委員は、金門を国家戦役記念公園に企画せよとアドバイスしました。建設署が関連部門及び学者専門家たちを招いて可否について話し合いを行い、行政院経建会は民国82(1993)年3月10日第680回委員会にて原則を決議して実行を同意し、国家公園計画委員会に委任して討論を行った後、法定のプロセスに基づき行うことを薦められました。
本計画は民国84(1995)年2月17日において、内政部国家公園計画委員会第29回委員会の審議を経た後、行政院に提出し、民国84(1995)年5月18日付け行政院2431回院会の査定をパスし、名称を「金門戦役記念国家公園」改め「金門国家公園」、金門地域が戦役中における史跡、文化及び生態景観など全体の環境の特徴を明確にしました。行政院は民国84(1995)年5月25日付けの文書にて内政部に公告し、民国84(1995)年10月18日に金門国家公園管理処を立ち上げました。
地理環境
地理的位置と範囲の面積
金門は中国大陸福建省東南にあるアモイの外海、九龍江の出口に位置し、金門本島(大金門)、烈嶼 (小金門)など十二もの大小の島々で構成し、トータル面積は約153平方キロメートル、本島の面積は13,425ヘクタールになります。西はアモイまで約10キロ、東は台湾まで約227キロ、緯度はおよそ台湾本島の台中地域と相当します。
金門国家公園の範囲は金門本島中央及び西北部、西南部及び東北部など、一部の地域及び烈嶼などの島を巡る道路とその外回りの区域を含みます。それぞれ太武山区、古寧頭区、古崗区、馬山区及び烈嶼区など、五つの区域に区画され、面積は3,528.74ヘクタール、金門県のトータル面積の23.14%を占めています。
保育、研究及び育楽の目標に達すべく、本区域の土地は、現有の土地に従って、その形態及び資源の特性を活かし、国家公園法第十二条の規定に基づき、それぞれ特別景観区、史跡保存区、レジャー区及び一般管制区など、四種類の管理区に分けられています。それぞれ異なる保護利用計画を制定することで、本区域内の特色を長く保存できるようにしています。
金門の環境
金門は島ではありますが、中国大陸と距離が近いため、生存する動植物の種類も中国と似通っています。しかし、台湾の孤島の生物相と比べ、金門は台湾で見られない生物の種類が多くあります。植物について言えば、金門原生の植物690種類余りの中で、ハマビワ属、ヌルデ、ストロファンツスなどは台湾にはない品種です。鳥について言えば、台湾で見つけにくい、或いは見られない鳥は、金門では頻繁で見かけます。オオバンケン、ヒメヤマセミ、エンビタイヨウチョウなどに至っては、台湾では発見した記録がありません。
金門は環境を良好に保護し、且つ輻湊の位置にあるため、播遷する生物類が現れやすいため、金門の生物の種類が大変豊富になりました。金門は南北に熱帯と温帯に位置するため、金門にはハクチイ科、タイヨウチョウ科など典型的な熱帯生物や、アビ科、ハイイロガンなど典型的な寒帯及び温帯の生物が見られます。金門の東と西はそれぞれ世界最大の海と大陸に接するため、アホウドリ科、グンカンドリ属など典型的な海洋性生物や、カササギ、ムナジロガラスなど大陸性生物もいます。この他、金門は大陸の東南沿海に位置し、アジア大陸の東海岸は東アジアの渡り鳥が移動するのに重要なルートであるため、多種類の渡り鳥が金門を通過、或いは金門で冬を越します。
福建広東沿海地域は土地が狭く、人口密度が高いため、自然環境は長きに渡り、開発しにくいプレッシャーに直面しています。沿海地域の環境保護のレベルは低く、金門は戦地であったのを幸いして守られて動植物が生息するパラダイスとなりました。金門国家公園管理処が20年余り努力してきた結果、生物の多様性について丹念に調査研究を行ってきました。福建沿海地域での陸域の生物研究が最も徹底され、同時に沿海地域の生物のために、素晴らしい生息地環境を残しています。
動物資源
本エリアの面積は小さく、長期に渡り開発してきたため、大型の野生動物が比較的少ない。ただ、金門は大陸のそばに位置し、渡り鳥の中継所であるため、鳥の種類が最も多く、哺乳類動物の中ではカワウソが比較的特殊であり、沿海生物はカブヨガニ科が最も代表的なものです。
鳥類は金門国家公園内において、最も豊富且つ最も特色のある野生動物であり、金門は多様な生息環境及び人口密度が低いうえ、東アジア地域の渡り鳥が移動するルートに位置しているため、鳥類は種類と数が大変豊富です。金門の鳥の種類は約300種余りあり、渡り鳥(を含む)は74%にも上り、留鳥は僅か13%(他に13%の迷鳥が有ります)を占め、比例は大変アンバランスです。毎年秋から翌年の春の終わりにかけて、多くの種類と数の渡り鳥が北方からこの地に飛んで来ては、食べ物を探したり、トランジットしたりと奇観です。この時のエリア内の慈湖、金沙水庫、陵水湖では、大量のカモ科、ウ科、カモメ科及びシギ科の水鳥の群れが生息するのを見られます。単一種の鳥類の数が大変多く、加えて鳥の状況は台湾と異なることで、金門地域の鳥類相の重要な特色を形成しています。その中で、多くの鳥類は台湾地域では見られない或いは見ることの少ない種類があり、例えばオオバンケン、シキチョウ、アオショウビン、ヒメヤマセミ、カタグロトビ、ハリオハチクイ、オニカッコウ、ミヤコドリなど、多くのバードウォッチャーを惹き付けて、その姿を一目見ようと駆けつけています。
植物資源
文献の記載によると、金門の青々とした緑豊かなの海の島でしたが、長年理不尽に伐採されていました。清朝の順治18年(西暦1661年)、北は山東から、南は広東まで、沿海三十里の住民を皆内地に移転させ、実質上の移動であり、堅壁清野の上に清朝末の戦乱が多いため、金門は木も草も無いところでした。民国38(1949)年、国民軍が金門に進駐し、掩蔽、防風、沙を固定する必要があると感じたため、積極的に林造りを始めました。主な樹木の種類は琉球松、湿地松、トクサバモクマオウ、ユーカリ・ロブスタ、ユーカリレモン、フウ、シマトネリコ、キワタ、ソウシジュなどを含み、土壌と水の保全及び生態景観のいずれにも役割を果たしています。
原生植物の降雨量、気温及び地質環境の影響を受けて、下記の特色があります:
- 金門地域は半乾燥気候に属し、背の高い木本植物の種類が少なく、背の低いものが多く、蔓植物はまばら、着生植物は大変少ない。
- 冬季の雨量は少なく、乾燥している環境に適応する多種の落葉樹が出現。
- 花岡岩の丘の面積は広く、多くの岩生種類がある。
- 湿地が多く、多種の湿地植物がある。
歴史溯源
復国墩、貝塚遺跡によると、今から6300~5500年前、金門には先住民がいました。生活スタイルは主に採集と釣りと狩りであり、出土した文物で推測するに、南島民俗の祖先型文化は、アジア大陸東南沿海早期の復国墩遺跡から台湾の大坌坑文化に発展する間にある文化でした。
東晉元帝建武年(西暦317年)、五胡(匈奴、鲜卑、羯、羌、氐)が紛争を起こし、中原地方では穏やかな生活ができないため、六姓の住民が浯洲に移住しました。唐徳宗貞元19年(西暦803年)、牧馬監陳淵が十二姓氏を率いて浯洲にて開墾を行ったため、島の住民は次第に繁栄していきました。北宋神宗である熙寧は、元豊年(西暦1068-1085年)、初めて正式に地方行政区を納入し、同安県に属しました。言い伝えによりますと、南宋の朱熹はかつてこの地方にて燕南書院を設立し、礼教を広めたために、「海浜鄒魯」と呼ばれています。元成宗大徳元年(西暦1297年)、浯洲塩場を建設し、塩を内地に供給しました。
明朝初め、東南沿海の海盗が蔓延り、金門は領海交通の要に位置していたため、明太祖洪武20年(西暦1387年)、江夏候の周徳興は、島に堀を掘り、守禦千戸所城を建立しました。その形ゆえに「固若金湯、雄鎮海門」と呼ばれ、「金門」の名前の由来となり、領海の防御の重鎮となりました。明朝永暦年(西暦1640年)、鄭成功は金門、アモイ両島に進駐し、監国魯王を迎えて、そこを反清朝復興の基地としました。清朝時、金門には独立した水師を設け、尚も海防の要の一つでした。
清宣宗道光年、アヘン戦争後(西暦1842年以降)、五口通商(広州、福州、アモイ、寧波、上海)の港であるアモイを開放し、金門の人々は、遠く南洋などの地へ出稼ぎに行くようになりました。
民国4(1915)年、金門は正式に県治を設立しました。民国26(1937)年、日中戦争が勃発、日本軍は八年間金門を占領しました。民国38(1949)年10月25日、古寧頭戦役が勃発し、海峡両岸が対峙するようになり、民国45(1956)年より実験的に戦地政務を始め、金門戦地政務委員会を立ち上げました。民国47(1958)年に金門砲戦が起き、たった44日の間に、金門に落とされた爆弾は47万発余り、その後、中国共産党は引き続き砲撃を二十年近く続けました。民国81(1992)年にようやく戦地政務を終止し、地方自治に戻しました。
集落の建築
金門早期の移住者の多くは漳県、泉城から来た方で、民居建築と風土民情は古風な閩廈を踏襲しています。四十年間の軍事管制により、この土地の都市化の足並みは遅く、それにより豊富な人文史跡を残すことができました。金門の伝統的な集落の形成は、実際に生活する際に必要とするものを原則として形成しています。早期の移住の多くは、水源が豊富、風と寒さを凌げられる要素が居住地の基本条件でしたので、集落の多くは山を背に河に面する場所にありました。住宅の建てる方向はほぼ同じ向きであり、特殊な「櫛タイプレイアウト」を形成しました。
金門の集落の多くは同じ苗字の集まりで、村の中心は本家の祖廟であり、頭目の中心は分家の廟など、階級がはっきりしており、家法倫理に基づき、氏族は祖廟の力を介して一族を集結して倫理を伝えていました。毎年の春秋には先祖供養が行われ、一族の長老が先頭に立って祖先を祭り、後世の子孫たちのご加護を祈る場で、一族が交流を深め、宗族の向心力を結合しました。祖廟の建築スタイルの多くは伝統的な閩南スタイルであり、間取りの多くは二落、規模は一般的な住宅より高く広いものでした。祖廟の屋根には陶磁の龍が設置され、「龍隠」と呼ばれ、祖廟特有の装飾品です。
厳しい環境や戦争が頻繁に起こっていた影響もあり、金門での生活は大変なものでした。天の威厳を敬い、癒しを求める心理も働いたことにより、金門地域の宗教活動は盛んなものにさせています。特に各村の寺院が執り行う儀式では、住民の生活及び礼儀規範に対して、尚も大きく支配するパワーを持っています。毎年各集落の寺院が儀式を行う際には、まず集落の周辺を回り、「安鎮五方」のセレモニーを行い、神々が守る境界を定めると同時に、集落の範囲をも確認しています。
クラシックで伝統的な建築文化
多くの苗字が混ざった村は通常港埠頭や商業が盛んな街、或いは早期軍事防御に必要として設立した拠点に作られます。各苗字は共同に祭る寺院を介し、生活共同体として凝集していました。
金門の伝統的な住居の間取りは小さく、一般的に合院スタイルが基本であるが、基地の面積に合わせて変化はありました。建築の基本的なレイアウトは「一落二攑頭(廂房)」、「一落四攑頭」が最も多く、その他にも変化した三蓋廊或いは二落大厝も数少なく有りません。元の建築スペース組織の上に陟帰、護龍などその他の形式の建築スタイルを増築し、その地域の特有のスタイルとなりました。全体的に言えば、本区の閩南建築はハイクォリティな芸術性を持ち、充分にクラシックで静かな美を伝えることができます。
この地域の建材はレンガ瓦、石材の次に木材を多く使用していました。昔は福建の泉州白石と福州杉を使用し、現地の花崗石は泉州白石より粗く黄色いもので、比較的安価な建材でした。レンガ瓦を壁面に使用すると、変化をつけ易く、石條平砌、斗子砌、磚石瓦混砌、出磚入石砌などの積み方があるほか、ひょうたんやダブル喜の字など、美しい絵柄を入れることもでき、大変特徴のあるものです。建築デコレーションテクニックにおいては、レンガ彫刻、粘土彫刻、木彫り、翡翠陶器及びイロエなど多くの方法があり、ルーフリッジ、ダブテールの下及びゲーブルの交わる場所のガチョウの頭は、デコレーションのポイントであり、デザインが豊富、図案も多様にあります。
饒富地方ならではの魔除け
金門の地理環境は貧しく、加えて明朝時代から多くの戦乱を経てきたため、島の住民は邪気を払い、福を呼び込むために、普遍的に魔除けを設置しています。集落の中の魔除けは、村の外周に風獅爺を設置、或いは河口に水尾塔などを設置するのが一般的であり、いずれも村を守り、無事を祈るものです。住宅の魔除けの多くは、邪気を解消する考えのものが多く、例えば庇に照壁、屋根に瓦将軍、オーブン、風見鶏を設置します。壁面には石敢当を設置するなど、厳密な心理的防御を作り上げています。
中西混合の建築スタイル
十九世紀中葉から二十世紀三十年代まで、金門には多くの青年がいました。アモイを中継して南洋或いは日本などの地へ出稼ぎに行きました。彼らは賃金を故郷に仕送りして家庭を支え、繁栄をもたらすと共に、学校、祖廟や故居を修復するのはもちろん、家族の誇りでもありました。一部の建築物は西洋風であり、閩南伝統の建築スタイルを融合しているものも、今や金門独特な文化の風景となっています。
戦役史蹟
台湾澎湖の安全を守る最前線として、多くの戦火の洗礼を受け、抹消できない歴史の爪あとを残しています。長期に渡る戦争に必要であったため、島には様々な頑丈な防御対策が施され、金門を枕戈待旦の戦地に作り上げました。その戦備設備は、最も歴史的意義を持つ記念物になっています。
古寧頭戦役
民国38(1949)年、共産党軍が大陸東南の半壁江山を席捲し、10月17日アモイを失うと、その勢力は金門諸島をも占領して台湾澎湖にまで進出しようとしました。当時福建省主席であった湯恩伯将軍が金門に退き駐屯する命令を出したがために、海峡の一角にあったこの金門の島を無情にも長年戦地にしてしまいました。同年10月25日未明、共産軍が古寧頭に上陸し、わが軍と56時間に及ぶ戦いをし、3日足らずで敵をやっつけました。部隊が戦場を片付けていた際、至る所が荒れ果て、血が海を染める衝撃的な風景が広がっていました。この「古寧頭戦役」は、金門を死守しただけでなく、金門はその時より台湾澎湖金門馬祖の重要な防衛線となり、台湾澎湖を守り、台湾のその後の安定した発展をする土台を固めました。古寧頭は古寧頭戦役の主な戦場であり、戦火の烙印が最もクリアに残り、廃墟や銃弾の跡が残る北山洋楼は、その戦役の見届け役となりました。
金門砲戦
第二次世界大戦後、ソビエトをメインとする「共産国際」は、世界を赤化しようと企てるが、アメリカがその赤化行動を食い止めようと、次々と西太平洋諸国と共同防衛条約を締結し、太平洋の防衛線となる民主陣営を作り上げ、台湾澎湖はこの防衛線の重要な地となり、金門と馬祖はその最前線にありました。民国42(1953)年の朝鮮戦争が終ると、中国共産党はすぐさま軍力を集中して台湾問題を片付けようとしました。金門馬祖各島は、戦略の地として重要であるため、長きに渡り中国共産党はそれを奪取しようと企てていました。民国43(1954)年、国民政府がアメリカと「中米共同防衛条約」を締結すると、アメリカ軍は正式に台湾と澎湖諸島の防衛を始めました。しかしこの条約が承諾する防衛範囲は、台湾本島及び澎湖諸島のみでありました。加えてアメリカは外島地区を防衛する態度は始終曖昧であったため、直接且つ間接的に、中国共産党が外島を奪取する野心に油を注ぐ形となりました。
民国47(1958)年になると、ソビエトが中東アラビア連盟の反西洋運動を策動し、イギリスアメリカはレバノンに出兵した際に、中国共産党はそのタイミングで砲戦を発動し、台湾の張り詰めた情勢を作り出そうと企ててアメリカの兵力を分散させました。加えて同じ年に毛沢東は「三面紅旗」運動を発起し、内部の反発に遭いました。中国共産党はその揺れ動く情勢を安定させようと、台湾危機を作り出す決意をしました。民国47(1958)年8月23日、共産党軍は金門に44日もの間、猛烈な砲撃を与えた「金門砲戦」が勃発しました。中国共産党の砲火のターゲットは、各軍事要地をロックオンしたほか、海運空運を遮断したことで、金門を孤立させるよう封鎖しましたが、国軍の海軍空軍による供給が途切れることが無かったため、中国共産党の金門を封鎖する計画は木っ端微塵に砕けました。それからというもの、共産党軍は奇数日には金門に対して大砲を発射して宣戦したり、散発的に撹乱目的で射撃したりとしていました。民国68(1979)年中米国交断裂した際に、漸く二十年にも渡る「単打双停(奇数日射撃偶数日停戦)」の砲撃を終了したが、この期間中、金門は百万発にも及ぶ砲弾を受け、大きなダメージを与えました。
地下金門、海上堡塁
金門は海上の孤島であり、実力行使をする余裕がありません。金門の花崗岩及び花崗片麻岩が隆起する地形は、正に地下に防御工事をするのに適しています。民国45(1956)年より、軍はトンネルを開墾、強化工事を行うことで、拠点陣地、指揮、通信及び在庫施設を次第に地下化する永久工事へと発展していきました。「単打双停」の日々でも、各施設の地下化を進めていました。民国52(1963)年国軍は供給しやすいよう、小艇トンネル(翟山、九宮)の開墾を開始しました。民国52(1962)年に擎天庁、民国67(1978)年には花崗石医院及び迎賓館(トンネル旅館)を建てました。民間では自分を守るために、住宅の近くに防空洞を掘り、民国65(1976)年からは更に瓊林、金城など十二箇所にて戦闘村の地下化工事が進められていました。
国民党と共産党の内戦が続く戦場、冷戦対峙に置かれた舞台、孤軍奮闘する反共産軍のスプリングボードなど、金門は近代史上、極めて重要な歴史的地位にありました。戦争は遠い過去となりましたが、戦火に見舞われた史蹟は尚もそこに、血と涙が交差する時代の悲劇を無言で語りかけています。追憶しながらも、そこに含まれる歴史的意味を是非とも忘れないで頂きたい。